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歴史の話

徳川将軍の一覧表と覚え方(語呂合わせ)墓所の寛永寺についても紹介!

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徳川将軍は、200年間も日本の平和を守ってきた徳川幕府の代表です。

15人いる徳川将軍ですが、全員が教科書などで紹介されるわけではないので、全員知っているかと問われれば、「う~ん…」とうなってしまう方も多いのではないでしょうか。

この記事では、徳川将軍を全員知りたい方向けに、徳川将軍のプロフィールや15人の覚え方、徳川将軍の菩提寺について紹介します。ぜひ、参考にしてみてくださいね。

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徳川将軍を一覧で紹介!

徳川将軍15名の一覧

  • ①家康:徳川将軍家始祖のレジェンド
  • ②秀忠:二代目はつらいよ
  • ③家光:幕藩体制を敷いた男色家
  • ④家綱:病弱な「さようせい将軍」
  • ⑤綱吉:赤穂浪士もドン引き?犬公方さま
  • ⑥家宣:綱吉の尻拭いをしたインテリ将軍
  • ⑦家継:わずか7才で亡くなった最小年将軍
  • ⑧吉宗:暴れん坊将軍でおなじみ!
  • ⑨家重:小便公方は実は女?
  • ⑩家治:将棋オタクな愛妻家
  • ⑪家斉:在位50年!精力絶倫オットセイ将軍
  • ⑫家慶:ペリーが来ても「そうせい」?
  • ⑬家定:篤姫の旦那さまは、廃人か隠れた名君か?
  • ⑭家茂:時代に翻弄され若くして散った「名君の器」
  • ⑮慶喜:徳川幕府に終止符を打った最後の将軍

徳川将軍は全15人、戦国時代末期から幕末まで、200年間の平和な時代を保ってきました。

全員初代家康の血筋ですが、7代家継までは3男秀忠、8代吉宗から14代家茂は紀州徳川家 (初代は家康の10男の徳川頼宣) 、15代慶喜は水戸徳川家 (初代は家康の11男の徳川頼房) です。

そのため、直接的な血筋は家継までという考え方もあります。

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徳川将軍の覚え方(語呂合わせ)を紹介!

徳川将軍の覚え方(語呂合わせ)

  • 「徳川は/家康ひみつ/つのつよし/はなよさもよし/15代」
  • 「とくがわは/いえやすひみつ/つのつよし/はなよさもよし/じゅうごだい」

5・7・5の俳句のようなリズムで覚えましょう。

  • 家康=家康
  • ひ =秀忠
  • み =家光
  • つ =家綱
  • つ =綱吉
  • の =家宣
  • つ =家継
  • よ =吉宗
  • し =家重
  • は =家治
  • な =家斉
  • よ =家慶
  • さ =家定
  • も =家茂
  • よし=慶喜

それぞれの将軍の名前の最初の一文字を順番に覚えるという感じですね。

名前の最初に「家」がついている将軍は、そのひとつ後の文字を覚えましょう。

徳川将軍は15人もおり、名前も似たようなものばかりなので、覚えにくいですよね。

これを覚えれば、あなたも徳川将軍マスターですよ!

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徳川将軍それぞれのおもしろエピソード

徳川将軍

ここからは、徳川15代将軍それぞれのエピソードを紹介しましょう。

有名な逸話やおもしろエピソードと一緒に名前を理解しておくと記憶が定着しますよ!

>>秀忠以降の顔画像についてはこちらをご覧ください

1代目 徳川家康:徳川将軍家始祖のレジェンド

徳川家康は、過酷な戦国時代を勝ち抜き、200年続く徳川将軍家を開いた人物です。

「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して食らうは 徳の川」という落首 (風刺的な狂言) は、あまりにも有名ですね。

三河 (現在の静岡県) の弱小大名の子どもとして生まれた家康は、幼少時代、人質としてさまざまな家を転々としました。

若い頃は、武田信玄に大敗したり (三方ヶ原の戦い)、本能寺の変に巻き込まれそうになり、命からがら脱出 (伊賀越え) するなどの危機にさらされましたが、持ち前の機転と忍耐力で弱った豊臣家を破り、徳川の世をつくります。

ちなみに、相当な健康オタクだったようで、当時としては高齢の73才まで生きました。

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2代目 徳川秀忠:二代目はつらいよ

徳川秀忠は、父・家康の威光を背負いながらも、制度が整備されていなかった徳川の世の基盤をつくった人物です。

徳川家康の3男として生まれますが、長男は死亡、次男は家康に忌み嫌われていたため、跡継ぎに指名されます。

真田昌幸に翻弄され、関ヶ原の戦いに遅刻するなど武将としての評価はイマイチですが、政治手腕には優れてしました。

武家諸法度や禁中公家諸法度を整備し、武家と朝廷の統制をはかったり、神田上水を整備したりしています。

家康が秀忠を跡継ぎにした理由のひとつに「平和な世を治めるには、武勇より知勇」というものがありますが、納得してしまいますね。

一方、6才年上の妻・江に頭があがらず、浮気は一度しかしなかったという恐妻家でもあります。

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3代目 徳川家光:幕藩体制を敷いた男色家

徳川家光は、家康・秀忠がつくった徳川家の世を磐石にした人物です。

母・江に愛されず、寂しい幼少時代を送りました。

将軍となってからは、参勤交代の義務化、キリシタンの弾圧をし、鎖国体制を敷く、天草四郎をリーダーにした島原の乱を鎮圧したりしています。

若いころは男色家で、女性には見向きもしませんでした。

悩んだ乳母の春日局が女の園・大奥を整備し、38才にして初めて子どもをもうけます。

大奥設立は、家光の男色が理由にあったんですね。

4代目 徳川家綱:病弱な「さようせい将軍」

徳川家綱は、殉死を禁止して政治を家臣たちに任せ、「さようせい将軍」と呼ばれた人物です。

わずか11才で将軍になり、在位中には慶安の変 (軍学者・由井正雪を中心にした幕府転覆計画) や日本史上最大級の火災となった明暦の大火が起こりました。

政治は家臣に任せきりで、そのため「さようせい将軍」(家臣の提案には必ず「さようせい」と言っていたため) と呼ばれました。

しかし、松平信綱や秀忠の一度の浮気で出きた子どもである保科正之といった優秀な家臣たちのおかげで幕政は安定しました。

殉死を禁止し、優秀な人物が後世に残るようにもしています。

また、明暦の大火後、両国橋を建設、この近くで土俵が作られ、そこから相撲が発展しました。

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5代目 徳川綱吉:赤穂浪士もドン引き?犬公方さま

徳川綱吉は、「天和の治」をしながらも、生類憐みの令を出したことで有名な人物です。

徳川家光の次男で家綱の弟に生まれた綱吉は、優れた福祉政策など善政を行い、「天和の治」と呼ばれるほどでした。

当時、江戸市中では「かぶき者」という辻斬りや略奪行為をする人間であふれており、綱吉は無益な殺生をさせないために、生類憐みの令を出します。

そのため、犬などの動物ばかりでなく、老人等の弱者も令の対象でした。

捨て子の禁止、病人の保護も内容の一部です。

生類憐みの令のマイナスイメージは、役人による極端な取締りが原因です。

綱吉の治世に「忠臣蔵」として有名な赤穂浪士の討ち入り事件がありました。

6代目 徳川家宣:綱吉の尻拭いをしたインテリ将軍

徳川家宣は、先代・綱吉の生類憐みの令を取りやめ、新井白石などの優秀な人材を登用した人物です。

家宣は、生類憐みの令を取りやめ、インフレしていた経済を改善するため財政改革を行いました。

勉強熱心で清廉潔白、賄賂はいっさい受け取らなかったそうです。

そのため、江戸庶民から好かれ、彼の死後は江戸中が悲しんだというほどです。

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7代目 徳川家継:わずか7才で亡くなった最小年将軍

徳川家継は、わずか3才で将軍になり、7才で亡くなった幼将軍です。

父・家宣が亡くなり、幼くして将軍になりました。

病弱だったため、7才で亡くなってしまいます。

家継の父代わりとなったのが側用人の間部詮房で、あまりに懐いていたため、家継は間部と家継の母・月光院との間の子どもではないかと噂が流れました。

ちなみに、月光院派の大奥女中・絵島が引き起こしたスキャンダル「絵島生島事件」は、家継の治世です。

8代目 徳川吉宗:暴れん坊将軍でおなじみ!質素倹約しすぎて大奥では嫌われ者

徳川吉宗は、享保の改革を行い、幕政改革をした人物です。

吉宗将軍就任当時、政治の腐敗や財政圧迫などの問題が山積みで、質素倹約をモットーとした享保の改革を行いました。

改革の内容は、目安箱の設置、武芸の推奨、町火消しの組織化など。

コスト削減のため、大奥の美女50人解雇 (美女ならどこでも働き口があるため) し、大奥では嫌われたそうです。

新しもの好きで、ベトナムから象を輸入し、江戸庶民を驚かせました。

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9代目 徳川家重:小便公方は実は女?

徳川家重は、病弱で言語障害がありましたが、治世は安定し、経済のスペシャリスト・田沼意次を登用した人物です。

家重は病弱で脳性麻痺のため言語障害があり、歯ぎしりが絶えませんでした。

そのため、優秀な弟や家臣からバカにされており、彼が将軍になった後は、バカにした家臣はクビ、弟は江戸城にあがることを禁止したほど。

頻繁に尿意を催したため、庶民からは「小便公方」と呼ばれました。

一方で、経済政策のプロである田沼意次を大名に取り立てたりしています。

頭蓋骨や骨盤が女性の形に近いことなどから、女性説もありました。

10代目 徳川家治:将棋オタクな愛妻家

徳川家治は、武芸に富んだ愛妻家として知られる人物です。

祖父・吉宗からじかに帝王学を学び、武芸に優れた人物でした。

田沼意次を登用し、その活躍を支えました。

正室を大事にし、側室に子どもを産ませるとすぐにお役ご免にして、正室に子どもを預けたほどです。

大の将棋好きで、7段の腕前でした。

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11代目 徳川家斉:在位歴代最長50年!精力絶倫オットセイ将軍

徳川家斉は、歴代将軍最長の在位50年を記録した子だくさんな人物です。

側室は16人、子どもは53人いました。

たくさん子どもを作り、大名に子女を嫁入りさせることによって、大名とのつながりを強固にする狙いがあったといいます。

若いころには老中に松平定信を登用し、寛政の改革を行いました。

しかし、倹約に疲れた家斉は定信をクビにし、一気にぜいたく三昧をします。

そのせいで大奥の風紀は乱れ、智泉院事件などが起きました。

一方で化政文化と呼ばれる町人文化が開花します。

『東海道中膝栗毛』や『南総里見八犬伝』などの小説、浮世絵師として有名な葛飾北斎や東洲斎写楽が活躍したのはこの時代です。

12代目 徳川家慶:ペリーが来ても「そうせい」?

徳川家慶は、天保の改革を行いながらも、ペリー来航時に死亡してしまった人物です。

父・徳川家斉時代の浪費をどうにかするため、老中に水野忠邦を登用し、天保の改革を行いました。

しかし、厳しすぎる改革は失敗します。

水野忠邦失脚後、若い阿部正弘を老中にするなど、人を見る目はあったようです。

しかし、家臣の意見に反対することなく、常に「そうせい」と言うので、「そうせいさま」と呼ばれていました。

ペリー来航時の将軍ですが、来航2週間後に急死しています。

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13代目 徳川家定:篤姫の旦那さまは、廃人か隠れた名君か?

徳川家定は、病弱で表舞台に出てこなかった謎多き人物です。

脳性麻痺で言語障害があった家定は、極度の人見知りでかんしゃく持ちであり、松平春獄からは「凡庸のなかでも最も下等」と評価されるほどでした。

3度結婚しており、3番目の妻は大河ドラマでもおなじみの篤姫です。

お菓子つくりが趣味で、篤姫に手作りのカステラをふるまったというエピソードがあります。

14代目 徳川家茂:妻は皇女さま!時代に翻弄され、若くして散った「名君の器」

徳川家茂は、激動の時代を生き、「名君の器」と言われながらも、若くして亡くなった人物です。

尊皇攘夷の声が高まる中、幕府の権力を取り戻すため、仁孝天皇の娘・和宮と結婚しました。

家臣からは慕われ、勝海舟は彼の死後、「徳川家、教滅ぶ」と言ったほどです。

在位は7年でしたが、日米通商修好条約締結、安政の大獄、生麦事件などさまざま事件に立ち会いました。

しかし、第二次長州征伐の途中、病に倒れ亡くなってしまいます。

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15代目 徳川慶喜:将軍だったのは実はたった1年!徳川幕府に終止符を打った最後の将軍

徳川慶喜は、大政奉還し、徳川幕府に終焉をもたらした人物です。

家茂と将軍の座を争った慶喜ですが、家茂の死後、将軍となることをためらっていました。

幕府が長持ちしないことを分かっていたからです。

しかし、将軍となってからは、軍備を強化するなどの改革をしますが、薩長による倒幕の動きを察知し、大政奉還します。

将軍であった期間は、1年ほどでした。

明治維新後は、徳川家康となじみの深い静岡に住み、カメラなどの趣味に生きます。

地元民には、「ケイキさま」と呼ばれて慕われていました。

大正時代に入って3年後、76才でこの世を去りました。

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徳川将軍が眠る寛永寺とは?

徳川将軍

寛永寺は、徳川将軍6人がほうむられている将軍家の菩提寺です。

上野にあり、広大な敷地を有していたものの、幕末の上野戦争により大部分が上野公園になりました。

徳川家と寛永寺のつながりは?

寛永寺は、家康が慕っていた南光坊天海 (山崎の戦いで生き残った明智光秀という説もアリ) によって創設され、当初は徳川家の祈祷寺でした。

菩提寺はあくまで増上寺であり、こちらに秀忠をはじめとする6人がほうむられています。

しかし、天海を家康と同じく慕っていた家光が「自分の葬儀は寛永寺で」と言い、増上寺と同じく徳川家の菩提寺になりました。

巨大な敷地を持っていましたが、幕末の反新政府派による上野戦争で失い、現在は上野公園となっています。

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寛永寺の見どころ①徳川御将軍霊廟:徳川将軍6人が眠る

徳川将軍

徳川御将軍霊廟は、4代家綱、5代綱吉、8代吉宗、10代家治、11代家斉、13代家定の6人がほうむられています。

霊廟は、第二次世界大戦中にほとんどが焼失し、現在は一部が残るのみです。

基本的に非公開ですが、事前に申し込めば参拝することが可能です。

寛永寺の見どころ②上野大仏:唯一残った頭部から感じる「歴史」

徳川将軍

上野大仏は、さまざまな苦難にあいながらも、現在は頭部のみ残っている大仏です。

1631年に6メートルほどの大きさで建立されましたが、関東大震災で頭部が落ち、第二次世界大戦の金属不足で胴体が軍に徴収されました。

そのため、現在は頭部のみ残り、受験生に「落ちない大仏」としてあがめられています。

寛永寺の見どころ③旧寛永寺五重塔:重要文化財に触れるついでに動物園も楽しもう

徳川将軍

旧寛永寺五重塔は、釈迦・薬師・阿弥陀・弥勒の仏がまつられている塔です。

1631年、家光の時代に建てられました。

高さは36メートルあります。

戦後、東京都に寄贈されたため、上野公園内にあります。

見学するには、上野動物園の入場券が必要です。

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まとめ

今回は、徳川将軍について解説しました。

徳川将軍は、政治史だけでなく個人のキャラクターも一緒に覚えると覚えやすいですよ!

徳川将軍に興味がある方は、ぜひ参考にしてみてくださいね。

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